長文って難しいね

長文って難しいねという話を、ダラダラとしてみようと思います。



 ツイッターは字数制限のために長い話をしようとすると連投になり、TLを占領してしまいます。

 

ツイッターは1投稿あたりの字数制限が特徴的なSNSですが、それゆえに手軽に読み書きできるために日常の生活により近づいた投稿、あるいは制約の中で表現を試みる詩のような投稿ができるのが良さだと僕も思っていて、それをやっている、いいかえれば温度を感じられるアカウントに憧れがあります。そういう人たちをフォローしたり、されたりするようになった時期から、ヴネ垢でそういうことをもっともっとやりたいなと思うようになりました。

つまり、わりと長文を書いちゃうのが最初のヴネ垢のスタンスだったわけです。

また、長文投稿する中身も、思い出話や生い立ちに関する話など、まだ気持ちや風景の感じられるものがありましたが、基本的に僕は意見や論じる系のような、お硬い文章を長文で書きがちです。しかも完全に私見なので、正確さを突かれれば途端に瓦解する程度のものです。(ゼミ発表とかしたら怒られが発生するやつです。)

つまり、フォロワーさんのTLや自分のホームを、対して実にならない文章がスペースを占有してしまうわけです。

 

そういう自分の"長文性"に嫌気を覚えながら過ごしてきましたが、ちょうどブログをいろいろ読んだり、フォローした人がブログをやっていたりしたので、自分も挑戦してみようとアカウント取得してみたわけです。ヴネ垢の延長として、長文の逃避先としてブログを使えば、長文欲も解消されるし、TLもスッキリするし読みたい人だけリンクを踏めばいいし、めでたしめでたしということになります。実際功を奏したのかはともかく、ある程度ブログを使いながらツイッターで連投することが少なくなったと自分では思います。

ただ、発信する場の初めてがツイッターだったこともあって、ブログって難しいなという思いと格闘し続けています。

 

枠がないというのは難しい

長いこと書いていって、これここでする話じゃないなとなって入れ替えることがあります。


字数制限とは与えられた枠のようなもので、そこに乗っかっておけば形にはなるわけです。中身はともかくとして、枠を守ることがその表現方法をとるということで。俳句は575、漫才にはオチがある、ロックはギターベースドラムがいて曲の展開はこうで、伝統的な服の合わせ方とか、空手の型はこんなので…という風に。
字数制限のない長文には、ツイッターと違ってわかりやすい与えられた枠がないと言えます。枠となる構成は自分で考えないといけません。普通にあるんでしょうけど僕全然知らないので、国語の教科書持ってこないといけませんね。

 

表現するための技術や話題のネタとなる体験や知識の重要性

衝動的にダーッと書き続けていって、結局これ何が言いたかったの?何の文章?ってなって辞めることがあります。


目に触れる文字の分量が増えるほど、文章の粗が目立ってきます。

ツイッターみたいな短い文章ならば、ある程度行間を読み手が想像することができます。それが詩だったりの醍醐味ではあると思います。だからある程度は粗が隠れる(失礼!!)のですが、そうもいかないですね。

また、書き続けようとするには、それだけの動機、モチベが必要となります。こう感じたというものの核となる体験や、こう考えたんだという論を支える知識がしっかりしていないと筆がのるのは難しいなと思います。読み手にとっても、読んでいて面白くない、根拠や内容が薄い、という感想を抱かせ、読むモチベも下がってしまうでしょう。



東京の記事は、長めの文章ながらも書くこと自体はあまり苦にならずに済んだのは、その大きな体験や抱えていた気持ちから発生するモチベーションもあったろうし。わりと形になってるなというのは、出発する前(序論)、旅行の中身(本論)、感想(結論)というごく簡単な構成ながらもそれに則ったからだと思います(そもそも自分の嫌な"長文性"をスタートとしてないのが、大きな違いではあるとも思いますが)。

 
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そんな感じですね。真っ白なボードに、だらだら書けばいいってもんじゃないというのが学びです。

 

完全に初心者の意見ではあると思います。文章を書くということには、もっと深い深いものがあるだろうし。

一周回ってという言葉が僕は好きで、宿題や日記などの短い文章体験からスタートした長文の猛者が究極たどり着くのは詩の世界だったりするんじゃないかと。なんとなくで初めにやっていたことを、広げて広げて他にもいろんな方法を試して意識の上で把握できるようになることは、もともといたスタートの場でのやり方をも豊かにできるというのが、僕がつかみかけている世界の真理の一端であるように思います。

豪華を経験した先にあるわびさびがただの簡素ではないように。絵のうまいピカソがたどり着いたキュビズムがただのらくがきではないように。

…でもそれって僕が妬んでいる、芸術をつくるための"文脈"を肯定しているのでは?長い文化史の中で培われた文化資本を持っている文化ブルジョワに芸術を独占させるのではなく、サルが偶然たたき出した作品も評価される世界をなんとなく願っていたけど、その評価の裏にあるのもまた経験などの"文脈"なのかな…などと考えだすと冒頭で言ったような嫌な長文が始まりそう
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最初のきっかけを満たすことも続けていくけど、長文でも、温度が感じられる投稿をしたい。それはもはやエッセイや小説の部類になるとおもうのだけど、長いこと本を読んでないのでインプットがない。気持ちがあることは幸いなので、そのために他の記事を読んだり本を読んだりして勉強したりして…

でもそこどまりになっちゃだめだ。頭でっかちになっちゃだめだ。


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勉強とは他人の体験を疑似的に摂取することだと思ってる。他人が行った旅行、他人が作った理論、他人がたどり着いた境地…。
個人一人だけでは到底体験できないものを、摂取することでいろんなことができるようになるからこそ人類は発展したのだろう。知識とは他人のセーブデータだろうと思う。ただし、他人の五感や意識を一度通したものを完全に自己の体験とすることはできないから、自分の手を動かし、足で歩き、頭で考えることが基本になるはず。

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こんな感じでいつも考えがまとまらなくなるので、難しいですね。結局、トライ&エラー、試行錯誤、PDCAサイクルを回すしかない。納得できるのを待ってたらいつまでもできないですね。進捗は、出すことに意義がある。